12月10日、世田谷パブリックシアターでサイモン・マクバーニー演出『春琴』を観た。1991年にストラットフォードのスワン座で『冬物語』を観た時の衝撃は忘れない。当時のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのシェイクスピア上演はシェイクスピアの戯曲をほとんど変えることのない台詞中心のもので、マクバーニーのマジックのような演出はストラットフォードでは斬新であった。キャサリン・ハンターが五役もこなし舞台を走り回っていたのは今でも覚えている。
その後、ロンドンで「Street of Crocodile」を観た。話はぼんやりとしか覚えていないが、主人公の幻想を視覚的に表現していたことは鮮やかに覚えている。紙を使ってはばたく鳥を表現したり、役者が壁を歩いたり、舞台はファンタジーそのものだった。
その後、マクバーニーの演出作品はできるだけ出掛けるようにしているが、『春琴』は見逃していたのである。
私は谷崎の作品が好きで、『痴人の愛』や『春琴抄』はことに好きである。今回、谷崎の倒錯した男女の世界がどう劇化されるのか楽しみにしていた。
今回の作品は現代に生きる声優が『春琴抄』を朗読し、物語が『春琴抄』の時代と現代を行ったり来たりする演出。マクバーニーのマジックはいたるところで使われる。数本の棒を使って襖や松などがあらわされる。
ことに目立ったのは、幼少の春琴を人形が演じる演出だ。文楽からヒントを得たのであろう。感情のない人形は子供が持っている残虐性をよく表現していた。ところが、春琴が少女になると、役者が人形の振りをする。顔には人形のように表情がないのだが、裸になったその体は人間のものである。マクバーニーの観察眼に私は驚いた。たしかに、少女たちは表情や感情は均一にみえる。しかし彼女たちの体はすでに熟しており、異性を惹きつける力を備えているのだ。感情と体がアンバランスな少女たちが持つ怪しげな魅力をこのような演出で表現するとは、さすがマクバーニーである。
やがて、春琴は佐助に嫉妬する。そしてはじめて人間(深津絵里)になるのだ。人形から人間へ。感情がほとばしり、コントロールできなくなると人間は成長し、真の人間になる。そして、ここではじめて春琴は佐助と同等の立場になる。人形を崇めるかのような佐助のフェティシズムは終わりをつげ、春琴と佐助は人間同士として向き合うことになる。二人の倒錯した関係を人形を使って表現する、マクバーニーの才覚に脱帽である。
しかし、しかし、なのである。
私には『春琴抄』の朗読だけで充分であった。谷崎の言葉は聴いているだけで、男女の屈折した心情はもちろんのこと、情景も鮮やかに心に浮かぶ。盲の春琴や佐助のように、視覚に頼らなくとも、ほかの感覚で『春琴抄』の世界はわかるのだ。
マクバーニーは谷崎の翻訳を読んだのであろう。谷崎の文章自体が放つ感覚に直に訴える力を感じることはなかったのかもしれない。谷崎の作品にはマクバーニー・マジックは不要だ。
とはいえ、この公演を観て、久しぶりに谷崎の世界に触れ、私は嬉しくなった。そして、本棚の『春琴抄』を探してみた。そうだ。そういえば、『春琴抄』は父の棺に入れたのだ。父は谷崎の文章をこよなく愛していた。ことに、谷崎が描くマゾ男について父は嬉しそうに語っていた。
書店で『春琴抄』を買い求め、通勤時に読み直してみた。『春琴抄』の世界は鮮やかに心によみがえった。読み終わっても、私はしばらくは目を閉じて谷崎の世界にひたっていた。
と、感想文もまともに今日は書けません。論文が進まないので気晴らしにつらつらと書いてみましたが、文章がまったくたちません。ま、こんな日もありますよね。

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