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    アジアのシェイクスピア上演のアーカイヴ。日本、韓国、台湾、中国、シンガポールなどなど、東アジアのシェイクスピア上演の映像を観ることができます。一見の価値あり。
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2011年5月16日 (月)

かおりちゃんのヘルシーな生活3

パン作りにハマっています。ホームベーカリーにセットするだけでこんなにおいしいパンが作れるとは、、、。しかも、ヘルシー。毎日楽しくて仕方ありません。この一週間に作ったパンを一気に公開。次は何パンを作ろうかな。

9/5/11

ラムレーズンパン

強力粉 200g グラハム 50g 米粉(上新粉などでもOK 30g はちみつ 大さじ1 1/2 スキムミルク 大さじ1 塩 小さじ1 バター 18g ドライイースト 小さじ1 200cc ラムレーズン 60g

12/5/11

プルーン& レーズンパン

強力粉 185g、米粉 45g、グラハム 40g、ウィータビックス 30g、砂糖 10g、塩 小さじ1、プルーン 50g、レーズン 50g、牛乳 190

14/5/11

ベーコン・チーズ・にんじんパン

材料 ( 1斤分) 強力粉 150g、グラハム 50g、冷ご飯 80g、にんじん 70g、砂糖 15g、塩 2g、 牛乳 180cc、 マーガリン 大さじ1、 ベーコン 50g、 ベビーチーズ 3個、スライスチーズ1枚、 ドライイースト 小さじ1

ふわふわかぼちゃ食パン

材料 (1斤分) :強力粉 200g、グラハム50g、 砂糖 30g、 塩 3g、 マーガリン 30g、 かぼちゃ(皮つき) 100g、かぼちゃの種・ひまわりの種40g、

*早焼き、色は薄目

2011年5月 8日 (日)

かおりちゃんのヘルシーな生活2

パン作りに凝っています。安いホームベーカリーを買ってから毎日理科の実験のようで楽しい。今日作ったのはこれ↓

ご飯パンレシピヴァリエーション青汁入り岩のようなごつごつ、でももっちりパン

強力粉140g、グラハム30g、水95cc、冷ごはん130g、青汁(粉末)、くるみ・黒ごま40g、はちみつ大2、塩小1、バター10g、ドライイースト小1

理由はわかりませんが、焼きあがったらごつごつ岩のようなパンになっていました。でも、中はもっちり。ヘルシーな味です。

2011年5月 6日 (金)

かおりちゃんのヘルシーな生活1

文化的生活、相変わらす続けています。が、しかし、体力が続かない。お芝居を見るのも体力が必要。そこで、3月半ばから週に二回スポーツクラブに通い始めました。トレーナーの先生について筋力トレーニング、有酸素運動に励んでます。さらに、ヘルシーな食事を心がける毎日。カロリー計算や栄養バランスを考えて献立を考えるのは楽しい。いろんなレシピに挑戦する毎日、ハマってます。

ところが、レシピをすぐに忘れてしまい、二度と作れなくなってしまうので、ブログに残しておくことにしました。

体力がみっちり付いたら文化的生活についてもそのうち書きます。

かおりちゃんのヘルシー・レシピ

ご飯パンレシピ

強力粉170g、水95cc、冷ごはん160g、砂糖大2、塩小1、バター10g、ドライイースト小1

*友人に聞いて早速トライ

*水とご飯を混ぜてお茶漬け状態にして通常の早焼きコースで焼くだけ。水とご飯はフードプロフェッサーで混ぜました。

ご飯パンレシピヴァリエーション・にんじんパン

強力粉140g、グラハム30g、水95cc、冷ごはん130g、すりおろしにんじん50g、ひまわり・かぼちゃの種20g、砂糖大2、塩小1、バター10g、ドライイースト小1

*もっちりおいしい!

2011年1月 1日 (土)

今年もいい芝居をたくさん観るぞ!

あけましておめでとうございます。

あっという間に2011年。毎年一年、一年が早い!

去年は、職場を変わったにもかかわらず、精力的に海外に出掛け、芝居もたくさん観ました。4月に訪れたルーマニア・クライーヴァのシェイクスピア・フェスティヴァル、よかったなあ。一週間ほどの間に7,8本の『ハムレット』を観ました。ドイツ、ルーマニア、ポーランド、日本、アメリカなどなど、文化が変われば『ハムレット』もまったく違ったものになるのね、と実感。

夏はロンドンで観劇。その後、名古屋や東京で様々なお芝居を観ました。心に残ったのはあいちトリエンナーレかな。コンテンポラリーダンスにすっかり魅せられ、とくに、矢内原美邦さんのダンスにぞっこん。

が、11月あたりからパワー切れ。芝居を観るのも体力がいるのね、と実感しました。溜まった仕事を片付けるだけでへとへとの12月。何とかノルマをこなし、毎年年末恒例の北海道スキーに出掛けましたが、ほとんど寝暮らしました。スキーに行ったのは数日のみ。

でも、おかげで、去年の疲れはすっかりとれ、さわやかなお正月です。

今年こそ体力をつけて、もっとたくさんお芝居を観るぞ!と心に誓うのでした。(毎年のことなのですが)明日から毎朝走るぞ。(と、毎年思うのですが)

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2010年12月16日 (木)

サイモン・マクバーニー演出『春琴』:谷崎作品にはマジックは要らない

12月10日、世田谷パブリックシアターでサイモン・マクバーニー演出『春琴』を観た。1991年にストラットフォードのスワン座で『冬物語』を観た時の衝撃は忘れない。当時のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのシェイクスピア上演はシェイクスピアの戯曲をほとんど変えることのない台詞中心のもので、マクバーニーのマジックのような演出はストラットフォードでは斬新であった。キャサリン・ハンターが五役もこなし舞台を走り回っていたのは今でも覚えている。

その後、ロンドンで「Street of Crocodile」を観た。話はぼんやりとしか覚えていないが、主人公の幻想を視覚的に表現していたことは鮮やかに覚えている。紙を使ってはばたく鳥を表現したり、役者が壁を歩いたり、舞台はファンタジーそのものだった。

その後、マクバーニーの演出作品はできるだけ出掛けるようにしているが、『春琴』は見逃していたのである。

私は谷崎の作品が好きで、『痴人の愛』や『春琴抄』はことに好きである。今回、谷崎の倒錯した男女の世界がどう劇化されるのか楽しみにしていた。

今回の作品は現代に生きる声優が『春琴抄』を朗読し、物語が『春琴抄』の時代と現代を行ったり来たりする演出。マクバーニーのマジックはいたるところで使われる。数本の棒を使って襖や松などがあらわされる。

ことに目立ったのは、幼少の春琴を人形が演じる演出だ。文楽からヒントを得たのであろう。感情のない人形は子供が持っている残虐性をよく表現していた。ところが、春琴が少女になると、役者が人形の振りをする。顔には人形のように表情がないのだが、裸になったその体は人間のものである。マクバーニーの観察眼に私は驚いた。たしかに、少女たちは表情や感情は均一にみえる。しかし彼女たちの体はすでに熟しており、異性を惹きつける力を備えているのだ。感情と体がアンバランスな少女たちが持つ怪しげな魅力をこのような演出で表現するとは、さすがマクバーニーである。

やがて、春琴は佐助に嫉妬する。そしてはじめて人間(深津絵里)になるのだ。人形から人間へ。感情がほとばしり、コントロールできなくなると人間は成長し、真の人間になる。そして、ここではじめて春琴は佐助と同等の立場になる。人形を崇めるかのような佐助のフェティシズムは終わりをつげ、春琴と佐助は人間同士として向き合うことになる。二人の倒錯した関係を人形を使って表現する、マクバーニーの才覚に脱帽である。

しかし、しかし、なのである。

私には『春琴抄』の朗読だけで充分であった。谷崎の言葉は聴いているだけで、男女の屈折した心情はもちろんのこと、情景も鮮やかに心に浮かぶ。盲の春琴や佐助のように、視覚に頼らなくとも、ほかの感覚で『春琴抄』の世界はわかるのだ。

マクバーニーは谷崎の翻訳を読んだのであろう。谷崎の文章自体が放つ感覚に直に訴える力を感じることはなかったのかもしれない。谷崎の作品にはマクバーニー・マジックは不要だ。

とはいえ、この公演を観て、久しぶりに谷崎の世界に触れ、私は嬉しくなった。そして、本棚の『春琴抄』を探してみた。そうだ。そういえば、『春琴抄』は父の棺に入れたのだ。父は谷崎の文章をこよなく愛していた。ことに、谷崎が描くマゾ男について父は嬉しそうに語っていた。

書店で『春琴抄』を買い求め、通勤時に読み直してみた。『春琴抄』の世界は鮮やかに心によみがえった。読み終わっても、私はしばらくは目を閉じて谷崎の世界にひたっていた。

と、感想文もまともに今日は書けません。論文が進まないので気晴らしにつらつらと書いてみましたが、文章がまったくたちません。ま、こんな日もありますよね。

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2010年12月13日 (月)

いい芝居をたくさん見ているのに

忙しいです。いつもは暇な大学教員ですら12月となるとなかなか忙しいです。

いい芝居をたくさん見ているのに、なかなかブログが書けません。

先週は学生とイアン・マッケラン主演『リア王』を、院生とイアン・ホルム主演『リア王』を観ました。両方ともDVDです。イギリスの『リア王』はやはり長いですね。すべて観終わった後、学生も院生もぐったり。

金曜にはサイモン・マクバーニー演出『春琴』と矢内原美邦振付『桜の園』を観ました。いやあ、両方ともかなり良かったです。谷崎の原作も読みなおしたりしています。土曜は静岡に移動。鈴木忠志演出『リア王』を堪能。

先週の日曜にはかなり面白い『アントニーとクレオパトラ』を観ました。平幹二朗と松井誠、そして和泉元彌という組み合わせです。笑わせていただきました。(じつは先々週、路上で転倒したので、笑うと脇腹が痛かったです)

うーん、書きたいことは山ほどあるのです。が、しかし、時間がない。

卒業論文指導に加え、なぜか学生の自主制作映画に参加することになり、12月の土・日はすべて撮影日です。昨日は名古屋港で海を見ながら日永撮影。なんで私が映画に出ているのかさっぱりわかりません。

ゆっくりお芝居について書きたいです。明日こそ!

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2010年11月22日 (月)

『リア王』雑感:その2 『リア王』の難しさ 

「『リア王』の難しさ」

この一週間、『リア王』と奮闘している。ゼミで『リア王』を読んでいるのもあるけれど、『リア王』の上演史を小文にまとめなければならないからだ。

日々、さまざまなDVDを見続けているが、『リア王』の上演を客観的に語るのはかなり難しいことに気付き、苦戦している。

今週観た『リア王』は蜷川幸雄演出、Lee Yun-Taek演出、Lee Byung-hoon演出の三作品に加え、2008年にTBSで放映された『リア王』の翻案『王様の心臓―リア王より』。すべてDVDである。

『王様の心臓』はほのぼのとしたホームドラマに書き換えられており、批評を書くのは比較的たやすい。上演批評は原作と異なれば異なるほど書きやすい、とわたしは常々思っている。原作と上演のギャップに焦点を当てれば、演出家や上演自体の意図が比較的簡単に理解できるからである。『王様の心臓』については後日まとめるつもり。

ところが、今週観たほかの三作品はシェイクスピアの『リア王』に比較的忠実に演出されており、大きく異なっているのはリア王を演じる俳優の個性だけである。それぞれ素晴らしいリア王でただ感嘆してしまい、自然と涙が出てしまう。蜷川演出の平幹二朗の演技はことのほか素晴らしく形容する言葉さえ見つからない。(だから、素晴らしいと言うしかない)DVDを観終わった後、しばらく口もきけなかった。

しかし、これでは批評は書けない。困ったなと思い、The New Cambridge ShakespeareシリーズのThe Tragedy of King Learのイントロダクションを読み直してみた。17世紀から現代にいたるまでの『リア王』の上演史が簡潔にまとめてあるのだが、著者のJay L. HalioはR.A.Foakesの言葉を引用して以下のように語っている。「『リア王』はほかの悲劇よりも現代社会の不安や問題を突き付ける」。

さらに、The Oxford ShakespeareのKing Learのイントロダクションを読んでみた。「『リア王』は原作をそのまま上演する傾向が強い」とある。「原作をきちんと理解すれば、そのまま現代の上演になりえるのだ」。

そうなのである。『リア王』は奇抜な演出をしなくとも、現代に通用する芝居なのだ。父と娘の関係、権力闘争から身を引いた老人の物語、こうしたテーマは現代人にもそのまま理解することができる。私はシェイクスピア劇の普遍性を認めるのを今まで出来るだけ避けてきたが、今回、『リア王』を読み直し、見直してみてシェイクスピアってやっぱり普遍的なのね、と思わずにはいられない。

『リア王』は普遍的な物語である。だから、時代に合わせて作り変える必要はない。『じゃじゃ馬馴らし』のように現代人に受け入れられない芝居の場合は演出家はさまざまな奇策を練る。つまり、原作と上演のギャップが大きいのだ。こうした芝居は、批評する側も比較的楽である。

しかし、『リア王』の批評を書くのは難しい。ほかの批評家の上演批評を読んでも、「リア王を演じた俳優のペーソスに心を打たれた」、「彼が演じたリア王は彼のキャリアの中でも際立った役柄であった」など、意味があるようでないような文章ばかりが目立つ。みなさん困っていらっしゃる様子だ。

『リア王』の上演史、何とかまとめてみようと思っているが、道程は険しく長そうである。

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2010年11月15日 (月)

ロベール・ルパージュ演出『ブルー・ドラゴン』―中国への冷めた視線

「中国への冷めた視線」

11月13日、東京芸術劇場でロベール・ルパージュ演出『ブルー・ドラゴン』を観た。ルパージュの『夏の夜の夢』と『ハムレット』は以前、ロンドンで観たことがあるが、シェイクスピア以外の作品を観るのは初めてだ。

舞台は上海。ケベック出身のピエールは画廊を営んでいる。ピエールには若い恋人シャオ・リンがいる。彼女は中国人のアーティストだ。そこへ、ピエールのかつての恋人クレールがモントリオールから訪れ、奇妙な三角関係が起きる。図らずもピエールとシャオ・リンの間には子供が生まれてしまう。あらすじはいたって簡単なものだ。

男女の些細な関係という至って小さな物語を描きながら、ルパージュは鮮やかに変わりゆく中国をうつしだす。書、刺青など東洋の伝統や神秘への憧憬はビデオ映像などを駆使した視覚的効果や踊りによって美しく立ち現れる。まさにルパージュ・マジックである。

しかし、ルパージュの視線はたんなるオリエンタリズムにとどまらない。中国をごく冷めた視線でとらえている。一人っ子政策の矛盾、万博開催が引き起こす社会の歪み、パンダ外交に代表される中国政府の外交政策に対する批判などがあちこちにちりばめられている。シャオ・リンは子供を育てるためにアーティストになる夢を捨て、深せんで贋作を描く仕事に就く。ビデオ映像がシャオ・リンの描くゴッホの肖像を次から次へと映し出す場面は象徴的だ。アートが複製され、大衆に消費される社会、それはアンディ・ウォーホールがかつて揶揄した資本主義社会そのものだ。ピエールがかつて求めたユートピア的な社会主義国家中国はすっかり姿を変えている。

視覚的な効果が多用されるために、一見、舞台は艶やかに中国を映し出しているかに見える。しかし、男女の三角関係という卑近な物語を通して、変わりゆく中国をルパージュは冷めた視線で描いている。ルパージュ・マジックはただのマジックに終わることはない。

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2010年11月12日 (金)

『リア王』雑感:その1 「リア王とわたし」

「『リア王』とわたし」

いま、ゼミで学生と『リア王』を読んでいる。読み直してみるといろいろな発見があって面白い。

『リア王』は私にとって思い出のお芝居だ。私が初めて観たシェイクスピアのお芝居は『リア王』。中学生の時に、父に連れられてストラットフォードまで行ったが、覚えているのは座席の椅子が堅かったことだけである。そして、父と一緒に観た最後のお芝居も『リア王』だった。

先日、アレクサンダー・レガット(Alexander Leggatt)が書いたShakespeare in Performance SeriesのKing Lear (Manchester UP, 2004)を読んでいた。批評史や上演批評をたどるとリア王を自分に重ねる評論家が多いのである、とレガットは述べている。「『リア王』はもっとも基本的な個人の恐れや欲望を扱った芝居である。つまり『リア王』は“私についての芝居”である。」さらにレガットは「ほかの芝居であれば研究者としてきちんと距離をとることはできるが、『リア王』ではそれができないのだ」と結論のなかで告白している。

そういえば、父が埼玉まで『リア王』を観に行こうと言い出した時、父の寿命はあとわずかだった。自分と同年代の平幹二朗が演じるリア王をどうしても見たいのだと言い張ったのである。父は私と同業者でかつてシェイクスピア研究を生業としていたが、『リア王』には特別の想いがあるようであった。今思えば、リアとリアを演じる平幹二朗、そして老いた自分を重ね合わせていたのだろう。

『リア王』は老いた父親の物語でもあるが、権威を奪われた王の物語でもある。老いて行く自分を重ね合わせる者もいれば、社会からつまはじきにされる男の悲劇と自分の境遇を照らし合わせる者もいるだろう。

劇の後半でリア王は悔悛し、「私は哀れな老いぼれた老人だ」(I'm a very foolish fond old man)と云う。そういえば、父は退職してからこの台詞を何度も口にしていた。職を辞し、社会から切り離されたように感じていたのかもしれない。多くの男性は社会的な生き物で、自分と社会のつながりが断たれると不安を感じる。晩年の父は二重の意味で自分とリアを重ね合わせていたのだろう。多くの研究者と同じく、『リア王』は“私についての芝居”だと考えていたに違いない。

『リア王』とわたし。『リア王』は個人的な経験を重ねられる芝居だ。しかし、正直なところ、いまの私には『リア王』の面白さが今一つピンとこない。さて、『リア王』と私の物語はどう絡んでいくのだろうか。そんなことを思いながら読み返すのもなかなか楽しい。

2010年11月 9日 (火)

あいちトリエンナーレ:梅田宏明 『Adapting for Distortion』

「パフォーマンスのリアリティはどこにあるのか」

もう二ヶ月近く前のことになるが、9月11日、愛知県芸術センター小ホールで梅田宏明の『Adapting for Distortion』を観た。

最近、私は演劇やダンスを見るたびに、パフォーマンスのリアリティはどこにあるのかと考えてしまう。というのも、最近発売される演劇のDVDやテレビで放映される演劇番組は以前に比べて質が高くなってきているからだ。複数のカメラを使い、遠景、アップ画像が巧みに使われているだけではなく、音質もいい。ライブの演劇にはかなわないという人が多いけれど、私はそうかな、と最近考えてしまうのである。パフォーマンスのリアリティはライブでしか体感できないのだろうか。

梅田宏明の作品はそんな疑問にある一つの答えを見せてくれた。梅田は振付、ダンスをだけではなく、映像、音、照明のデザインまで担う。『Adapting for Distortion』では、梅田が創った幾何学的なデジタル画像が複数のプロジェクターから映され、梅田はそのなかで踊る。梅田の身体は生身の人間ではなく機械仕掛けの人形のように見えるだけではない。ときに、梅田の身体はまったく映像に埋没し、パフォーマンス全体がヴィデオ映像のように見える。

ライブのパフォーマンスの中で人間が映像に吸い込まれ、映像が主役になる。舞台芸術においては人間が作り出すライブ感が主役である、という仮定を見事にひっくり返していた。私には新鮮だった。

今回、あいちトリエンナーレのパフォーミング・アーツで私が楽しみにしていたのは公演後のアフタートークだったのだが、この公演ではあいちトリエンナーレ芸術監督の建畠氏と梅田氏のトークが行われた。そのなかで、梅田は以前行った実験作品について述べていた。舞台を半分に分け、片方では梅田自身が踊り、片方ではその踊りの映像をプロジェクターで流したという。すると、観客の半分はライブのダンスではなく、映像を見ていたと梅田は語った。

やはり。梅田は舞台芸術では人間の創りだすライブ感が何よりも重要で、映像は二の次、という一般常識に疑問を持っているアーティストなのだ。パフォーマンスのリアリティは映像にも存在する、それを正面切って舞台で見せるアーティストに私が出会ったのは初めてである。

DVDや録画された演劇作品など本当の演劇ではない、そう、多くの人は語る。しかし、パフォーマンスのリアリティはじつはこれらの映像にも存在するのではないか。梅田の作品はそんなことを考えさせてくれた公演だった。

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